Touch the Heartstrings

心の琴線に触れる森羅万象を日々書き綴る「Touch the Heartstrings」

クリスチャン・ディオール

ファッションに興味のある人のほとんど全員が「クリスチャン・ディオール」の名前は知っている。1905年にノルマンディ地方グランビルの裕福な実業家の家に生まれたディオールは、両親の希望で外交官を志してパリ政治学院に学んだ。しかし、在学中にシュールレアリスムに魅せられ小さなアートギャラリーを開設、パブロ・ピカソやマックス・ジャコブなどの絵を置いた。ただ、1930年代の恐慌や家庭の財政的な問題により2年でギャラリーを閉鎖する事になる。

その後、画廊時代のつながりでファッションの世界に入ることになり、しばらくの間、オートクチュールハウスのためにスケッチデザインをすることにより生計を立てた。リュシアン・ルロンのメゾンで働くディオールの才能に目を止めた木綿王のマルセル・ブサックの援助で1946年に独立、「クリスチャン・ディオール・オートクチュール・メゾン」が誕生した。

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1947年の春夏コレクションにディオールが採用したラインは、アラビア数字の8にも似た細く絞ったウェストとゆったりしたフレアスカートを特徴とするもので、戦時中の資材不足によりフランスのクチュリエたちが1着の服に使える布の面積に厳しい制限を抱えていたのに対し、贅沢に布を使用した点にも特徴を持っていた。この「花冠ライン」のシルエットの美しさに驚いた「ハーパース・バザー」の編集長カーメル・スノウが、「これはまさにニュー・ルックね」と言ったことから、そのデザインは「ニュールック」と呼ばれ、世界のモード界に新しい風を吹かせることになった。

戦後のファッションの指針を示したディオールは、1947年から57年までの11年間、パリのオートクチュール界の頂点に君臨した。また、クチュリエとして初めてライセンス事業に乗り出し、アメリカにおいてライセンス生産を開始。ライセンス契約で、ストッキング、ネクタイ、食器類等を生産、いわゆるブランドビジネスの先駆け的な存在になった。しかし、1957年のイタリア旅行中に心臓麻痺により52歳の若さで急逝。ディオール死後の1957年、21歳のイヴ・サンローランが主任デザイナーに大抜擢。その後、60年にマルク・ボアンが就任して89年までデザインを担当。

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