母の日
オヤジ世代の学生時代は、今のように携帯電話もなければメールもない。多感な年頃の男の子が色気づくと、ラブレターなるものを書いた経験のある人も少なくないだろう。
しかし、夜中に必死で書き上げた力作を、翌朝冷静に読み返してみると急に恥ずかしさが込みあげてきて、結局は相手に届くことのないラブレターになってしまう事も多い。ましてや、そのラブレターを何年後や何十年後に読めば、きっと顔から火が出る思いがするだろう。でも、こんな時期もあったんだなぁ~と、案外と懐かしさの方が優先するかも知れない。
自分の書いたエッセイを時々読み返すことがある。何てことを書いているんだ…とか、よくもまぁこんな事を書いたもんだと反省することも多々あるのだが、けっこう面白かったり、なかなか上手いじゃんと自画自賛する事もある。ま、継続している理由が究極の自己満足だけに、これは仕方ない事なのかも知れない。
今日は「母の日」だ。エッセイを開始した年の「母の日」頃に書いたエッセイを読み返すと、これが案外感動的なのだ。そこで今日はその時の内容を少々リライトしてお届けする。手を抜いたな…と思われる方もいるだろうが、実はその通りなので反論できない。
毎年母の日になると、今は亡き母を懐かしむ。昔からよく言われるように、「親孝行したいときには親はなし」というフレーズには、本当に胸が痛む思いである。親不孝を悔やんだところで今更どうしようもないのだが、やはり後悔が先に立つ。もう少し優しくしておけば、もう少し言う事を聞いておけば、もう少し一緒に過ごせていれば…
町医者だった母は、毎日夜遅くまで働いていた。診療時間が終わっても、近所から往診を頼まれると嫌な顔も見せず、すぐに駆けつけた。父は医者ではなかったが、共稼ぎだったため、私は生まれたときから近所に住む祖母によって育てられた。小学4年生までは、週末ごとに両親のもとに訪れるという生活が続いた。生まれた頃から両親と一緒に暮らしていなかったせいか、両親のことを本当の親とはなかなか思えず、一緒に暮らすようになってからも、どことなくぎこちない他人行儀な接し方しかできなかった。
学校から帰ってきても、まだ両親は働いていて、夕食も一人で食べることが多かった。家族揃って一緒に食事をすることはほとんどなかった私を不憫に思ったのか、また、我が子をかまえない自分に負い目を感じたのか、母はどんなに忙しくても学校の行事には必ず参加し、普段は料理を作る時間などないのに料理学校に通い、そこで学んだ料理を手土産に持ち帰り、私に食べさせた。
母らしいことをしようと必死で努力する姿が、逆に取ってつけたような偽りの優しさに感じられ、ありがた迷惑だと、反抗的な態度をとっていた時期もあった。今では、母の盲目的な愛情を胸が痛くなるほど理解できるし、素直に感謝できなかった頃の自分が恥ずかしく思える。
私は「おふくろの味」を知らずに大人になったと思っていた。しかし、高校時代の夜食に母が時々作ってくれた、砂糖を加えた焦げ目入りの玉子焼きと、たまねぎとじゃがいもの具沢山の味噌汁が、今でも忘れられない。けっして繊細な味付けではなかったし、見栄えも悪かったが、料理学校から持ち帰った料理より断然おいしかった。慣れない料理を一生懸命に挑戦してくれた母の優しさが、最高のスパイスになっていたに違いない。
母はお洒落な女性だった。どんなに遅くなっても、どんなに疲れていても、きちんと化粧を落とし、顔の手入れだけは、けっして怠らなかった。「疲れているのに、早く休みなよ」と、声をかけても、「はいはい」と軽く笑いながら受け流していた。
晩年、母は癌を患い、入院生活を余儀なくされた。しかし、病床でも化粧をやめようとしなかった。ファンデーションや口紅で顔色が分からなくなるからと担当医に注意され、母を説得した。渋々承諾したものの、美容液や乳液の使用はやめよとしなかった。母は、疲れたひどい顔を人に見せたくないと言う。
日増しに体力が落ち、自分で顔の手入れができなくなってくると、それは私の日課となった。毎朝、化粧水で顔を拭き、マッサージをした。「ありがとうね」と、か細い声で感謝を伝える母は、どこか寂しげであり、嬉しそうでもあった。
大病と闘っている最中でも、女性であることを忘れなかった母は尊敬に値する。ほどなくして天に召された母の顔は本当に美しかった。元気な頃、ドレッサーの前でニコニコしながら顔のマッサージをしていた姿が、今も懐かしい。そして、もう1度、愛情スパイス入りの甘い玉子焼きと味噌汁を食べてみたい。
まだお母さんに感謝を伝えることのできる方は、「ありがとう」と言う言葉と気持ちを贈ってみてはいかがですか?