Touch the Heartstrings

心の琴線に触れる森羅万象を日々書き綴る「Touch the Heartstrings」

ハッセルブラッド

世界中で多くのプロ写真家御用達の高級カメラで知られるハッセルブラッドは、スウェーデンのカメラメーカー。一般的なカメラの姿とは少し違った箱型ボディーにレンズが付いたハッセルブラッドは、シンプルで無駄のないデザインが少し武骨で素っ気ないが、愛嬌も感じられる。これがスウェーデンらしいのかも知れない。

ハッセルブラッドを胸からお腹辺りで抱えるように持ち、頭を少し垂れて写真を撮る姿は、普通のカメラの撮影ポーズと違い、どこか優雅で涼しげな紳士然とした構えである。他とは一線を画する余裕を感じさせる大人のカメラと言える。

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170年以上も前の1841年に、スウェーデンのヨーテボリの港町にハッセルブラッド家は最初の商社である「F.W. Hasselblad & Co.」を設立した。ヨーロッパ大陸に近いヨーテボリという立地は、イギリス、オランダ、デンマーク、ドイツやその他の国々と歴史的にも交易が盛んで、商社にとっては理想的な場所であった。ハッセルブラッド家の会社はスウェーデンの最も繁盛している商社の1つとなり、また、会社の創始者の息子で熱心なアマチュア写真家のアービッド・ヴィクター・ハッセルブラッドが自身のために立ち上げた写真部門が予想を覆し花形部門に成長した。

その後、イギリスへのハネムーン中だったアービッド・ヴィクターは、コダックの創始者であるジョージ・イーストマンと出会う。そして、2人は握手だけでそれから80年近く続いた業務提携を結んだ。1888年にハッセルブラッドはイーストマン精神をスウェーデンの総代理店として輸入を開始した。写真の人気の上昇とその分野における技術的向上が写真製品の需要を高め、ハッセルブラッド社の写真部門は急成長を遂げた。ラボの設立や全国ネットの小売店が確立され、信用と尊敬で築かれた2人の間での協力は大きな成功を生んだ。1908年には「Hasselblad's Fotografiska AB」として独立し、会社はその息子のカール・エリック・ハッセルブラッドに引き継がれた。

1906年に産まれたカール・エリックの息子のフリッツ・ヴィクター・ハッセルブラッドは、ファミリービジネスの跡継ぎとして育てられたが、内気で自然の写真を撮影するのが趣味の男の子だった。フリッツ・ヴィクターが18歳の時、父のカール・エリックはカメラ製造を実地に学ばせるため、彼をドイツのドレスデンに送り、カメラ業界やレンズの製造について学ばせた。フリッツ・ヴィクターは次の数年間、父が良いと思った教育を学校ではなく、社会に出て学んだ。彼は世界中を駆け巡り、この時期に多くのカメラ業界で修行をした。最初はドイツ、そしてフランス、そして最後にアメリカでカメラやフィルム工場、現像室、カメラ屋など、写真の世界を理解するだけでなく、どのようにしてカメラやレンズが作られるかを学んだ。

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彼がラッキーだったのはハッセルブラッド家という名前の影響が大きかった。そのおかけで国際社会にも自由に出入りでき、家業のビジネスパートナーだったジョージ・イーストマンとも友達になることができた。彼はフリッツ・ヴィクターをロチェスターにある家に住まわせ、腕のいい写真家たちや技術者たちと知り合う機会を与えた。

ヨーロッパに戻ったフリッツ・ヴィクターは家業へ復帰したが、家族間の確執や父親との意見の相違に悩まされた彼は、それから間もなくして自分の会社を立ち上げた。1937年に彼は自分の写真店「Victor Foto」をヨーテボリの中心に開店。店には写真用のラボもあり、家業から離れて初めて立ち上げた商売でもあった。彼にはビジネスとマーケティングの才能があり、そして、店も繁盛した。

第二次世界大戦が始まると、ドイツからの輸入が途絶えてスウェーデン軍は軍用カメラに困った。ある時、領空侵犯し墜落したドイツ軍機から航空カメラを発見したスウェーデン政府から、スウェーデン最大のカメラ輸入業者の家族の一員であり、カメラの専門家であった34歳になるフリッツ・ヴィクター・ハッセルブラッドの元に「同じ物を作ってくれ」という依頼が舞い込んだ。その時に、「いいえ、しかし、もっと良い物なら作れます」と答えたという逸話が残っている。

そして、フリッツ・ヴィクターはドイツのカメラをリバースエンジニアリングし、初のハッセルブラッドカメラのHK7型7×9cm判レンズシャッターカメラを設計した。1941年の終わりに、フリッツ・ヴィクターは空軍から新型カメラの受注を受けたが、それはより大きなネガのフォーマットと飛行機に固定で搭載できるものでなくてはならなかった。軍はHK7型とその後続モデルのSKa4型に大変満足した。このモデルは、後にハッセルブラッドの戦後の生産において最も重要である幾つかのユニークな機能が装備されており、交換可能な巻きフィルムもその1つであった。

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1942年に父のカール・エリック・ハッセルブラッドが死去し、フリッツ・ヴィクターが同族経営会社「F.W.Hasselblad社」の株のほとんどを購入。スウェーデン軍のためのカメラ生産も続き、1941年から45年までの間に計342台のカメラを納めた。

終戦後、フリッツ・ヴィクターは新しいスタイルの市販用カメラの生産にだけ取り組んだ。そして、1948年10月6日、彼は世界初の市販用カメラ、ハッセルブラッド「1600F」を発表。この型式はシングルレンズ、ミラー反射、交換可能なコダックレンズ付きの6×6カメラ、巻きフィルムとビューファインダーが装備されており、ニューヨークでの発表会では絶賛された。「1600F」カメラはエンジニアリングの先駆けと呼ばれるほどの評価を受けたが、耐久性には少々問題があった。

その後、設計要素を何度も改良し、自信作の「1000F」が誕生した。アメリカの雑誌「Modern Photography」は新型「1000F」を試し、素晴らしい結果を報告した。雑誌の試験者たちは1台のカメラで500本分のフィルムを使い、また落下試験も2回行った。試験されたハッセルブラッドは壊れたり、故障したりしなかった。耐久性の問題はクリアしたということは謙遜に過ぎない。ここから伝説が生まれた。

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1957年にハッセルブラッドは画期的な製品であるハッセルブラッド「500C」によって初代のカメラに続いた。この画期的なカメラは、中央リーフシャッターのレンズとすべてのシャッタースピードにフラッシュ同調が装備されていた。そして、1954年のハッセルブラッド「SWA」に続いてワイドアングルのハッセルブラッド「SWC」とモーターによって動くハッセルブラッド「500EL」と続いた。これらのカメラは何年もの間、ハッセルブラッドのシステムのベースを形成した。

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システムの裏にある基本的な哲学である調整のしやすさ、オールマイティーさと信頼性がハッセルブラッドの製品ラインを50年以上も導いた。ハッセルブラッドの方法は多くの人々によって真似され模倣されたが、決して同じものにはならなかった。ハッセルブラッドの名前は最高の信頼性と画質を持つカメラの代名詞になった。

そして、何よりもハッセルブラッドの名を有名にしたのは、人類が初めて月に降り立った時にアームストロング船長が撮った初の月面写真や、月から捉えた地球の姿を撮影したカメラがハッセルブラッド「500EL/70」であったという事だ。写真の歴史の中でこれほど有名で、そして、影響力のある写真は他にない。

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1998年には富士フィルム社と業務提携し、一緒に新型のハッセルブラッド「XPan」カメラの導入によって再度カメラ業界に革命を起こした。中判に特化したメーカーと思われていたハッセルブラッドが、創業以来初めてラインナップに加えた唯一の35mmカメラは、通常の35mmフルサイズの画面二駒分のフィルムを使用したパノラマ写真が撮影でき、もちろん切替式で24×36mmサイズの通常撮影も可能。

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また、2002年には別の画期的なカメラシステムが発表された。今回はオートフォーカスや非常に進化した電子チップ制御を含む最新の技術的向上を組み込んだ6×4.5中判カメラ。設計にはデジタル技術を念頭に置いて行われ、ヒットとなった。

そして、2011年に発売されたハッセルブラッド「H4D-40フェラーリエディション」は、ハッセルブラッドとフェラーリのコラボレーションによって生まれたカメラ。自らもフェラーリオーナーでもある現ハッセルブラッドのCEOであるラリー・ハンセンは、フェラーリオーナーがドライブしながらハッセルブラッドのカメラを素早く使えるようにと、カメラフォルダーを内装にもデザインしてもらったことを知り、フェラーリとハッセルブットが気が合うと気づき、コラボレーションを提案したという。両社の製品に対する思いと優れた技術が交じり合い、ファンにとってたまらない逸品に仕上がっている。

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しかしながら、2011年の発売から、このカメラは一般の人はもちろん、フェラーリファンにもあまり知られておらず、ライセンスの関係で、2013年の7月末に生産終了となってしまう。そこで、代官山蔦屋書店にて世界で499台しか生産されていない「H4D-40フェラーリエディション」のデモ機1台を売場に展示し、国内では唯一WEBサイトでも購入できるようにした。

このカメラのスペックは、デジタル一眼「H4D-40」をベースに「rosso fuoco」というフェラーリのカラーリングを採用し、側面にはフェラーリを象徴する跳ね馬のエンブレムが施されている。その美しさから、2013年ドイツデザインアワード・ライフスタイル部門にノミネートされた。このモデルにはHC80mmのレンズが付属しており、ガラストップがカーボンファイバーで作られたディスプレイボックスに収められている。画素数は40メガ(4000万)ピクセルと一般のデジカメの4倍以上で、発売から1年以上たった今でも圧倒的なスペックを誇る。

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ちなみに、価格は285万6000円。これを高いとみるか安いとみるかはあなた次第である。