Touch the Heartstrings

心の琴線に触れる森羅万象を日々書き綴る「Touch the Heartstrings」

イタリア映画

昔、「黄金の七人」という面白い映画があった。1965年に製作・公開されたイタリア映画。銀行が誇る最新式の大金庫に収められた大量の金の延べ棒を、「教授」に率いられた6人の男と1人の女が綿密な計画と万全の装備と抜群のチームワークで、白昼堂々と7トンもの黄金を盗み出すことに成功するのだが、そこから彼らの騙し合いが始まった。6人を裏切る「教授」と、さらに「教授」を裏切る女。そして、「教授」を追う6人。果たして黄金は誰の手に…ってなストーリーの軽めのコメディだ。

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ルパン三世」に影響を与えた作品とも言われ、1972年4月5日から日本テレビ系列で放送が開始された「水曜ロードショー(現在は金曜ロードショー)」の第1回放送作品である。ちなみに、水野晴郎による作品解説が始まったのは同年の10月4日放送分からで、「黄金の七人」の続編である「続・黄金の七人レインボー作戦」が放映された。

個人的なイタリア映画のイメージは、この「黄金の七人」や「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」などに代表されるマカロニ・ウエスタンであり、ハリウッドのような大作というより、娯楽中心の軽めの作品が多いという印象であった。

イタリアの映画産業は、1903年から1908年にかけて3つの主な映画会社、ローマの「チネス社」トリノの「アレッサンドラ・アンブロシオ社」「イタラ・フィルム社」によって形作られた。これら初期の映画会社は、短い時期に良質な作品を製作し、イタリアの映画作品は国内だけでなく海外にも販売されるようになった。

最初にイタリアで製作された映画作品は歴史映画が多く、ネロやスパルタクスや、ユリウス・カエサルマルクス・アントニウス、クレオパトラなど有名な歴史上の人物を描いた映画が数多く製作された。

その後、930年代にはイタリアの指導者のベニート・ムッソリーニのもと、ローマの南東のエリアに、後に「チネチッタ」と呼ばれるイタリア初の大規模な映画撮影所が建設された。それはイタリア最大でヨーロッパでも有数の映画撮影所であり、まさに映画都市と呼ばれるような規模であった。大規模な屋外セットやスタジオ、フィルム編集設備などが備えられ、劇場、若者向けの映画学校など、映画製作に必要なものがすべて揃ったものだった。今日においても、多くの映画が「チネチッタ」で撮影されている。

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チネチッタ」で撮影した著名な監督、ロベルト・ロッセリーニフェデリコ・フェリーニミケランジェロ・アントニオーニルキノ・ビスコンティなどが、1950年代から1960年代にかけてのイタリア映画の全盛期に多くの作品を製作した。

また、イタリア映画のみならず「ベン・ハー」などのアメリカ映画の大作までもが撮影され、世界各国にその名を轟かせた。最近でも、「ギャング・オブ・ニューヨーク」「グラディエーター」などが「チネチッタ」のオープン・セットで撮影されており、阿部寛が古代ローマ人を演じ、他にも濃い顔勢揃いで話題になった「テルマエ・ロマエ」も「チネチッタ」で撮影された。

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ちなみに、1980年代にはイタリア映画の衰退を受け、収益が悪化し、破産の危機に陥ったが、国営化されることで危機を乗り切り、現在ではイタリア映画の衰退と高コストから映画撮影に使用される機会こそ減ったものの、近くにローマ地下鉄A線の駅ができ、周辺に新興住宅街やオフィスビル、大規模なショッピングモールが建設されるなど新たな賑わいを見せている。

当時のイタリアで支配的だったファシズム文化への抵抗として、また、頽廃主義の克服として、知識人は歴史的責任を自ら引き受けなければならず、人々の要求を代弁しなければならないという考え方が広まり、1940年代から1950年代にかけて、特に映画と文学の分野で盛んになった潮流が「ネオレアリズモ」だ。

この時期はファシズムとナチズムに対する抵抗の時期であり、また、戦後の混乱期であった。この間に多くの作家が、初めはパルチザン闘争に、次いで政治的議論に関わりあった。パルチザン闘争、労働者の要求、市民の暴動といった主題がこの時期のネオレアリズモ映画やネオレアリズモ文学によく現れる。つまり、内戦による恐怖と破壊を経験したあとで未来を築こうと喘いでいたイタリア社会に現れた問題や現実をテーマにした作品が多い。このような作品を製作した映画人として、ロベルト・ロッセリーニヴィットリオ・デ・シーカルキノ・ヴィスコンティ、また、脚本家のチェーザレ・ザヴァッティーニらが有名。

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その後は、国の発展に伴い、もっと分かりやすくて軽いタッチものにシフトされていく。社会的なテーマが真面目に語られるより、ユーモアを交えて描かれるようになる「ピンク・ネオリアリズモ(ネオレアリズモ・ローザ )」と呼ばれる作品である。1950年代に入ると官能味を帯びた作品群が生まれ始め、それまで脚本家だった20代、30代の若手が次々に映画監督となり、艶笑ものの他愛のないコメディ、ショートコント集、オムニバス映画が量産されるようになった。その流れのなかで1950年代後半に生まれたのが「イタリア式コメディ」。やがて1960年代中盤以降になると、ヨーロッパは艶笑オムニバスの合作などコメディの新しいムーヴメントに巻き込まれていくことになった。

その中には、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジーダ、シルヴァーナ・マンガーノ、クラウディア・カルディナーレなど、その後セレブとなる多くの女優たちが誕生した。

また、同時期には「マカロニ・ウェスタン」と呼ばれるジャンルの作品が、イタリアだけでなく全世界で人気を集めるようになった。「マカロニ・ウェスタン」は従来の西部劇と違い、イタリアで低予算で製作され、ユニークで鮮明な撮影技術が特徴。最も有名な「マカロニ・ウェスタン」は、セルジオ・レオーネの作品で、クリント・イーストウッド主演、エンニオ・モリコーネ音楽の「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」の3部作。

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イギリス、アメリカ、イタリアなどでは、これらの西部劇を「スパゲッティ・ウェスタン」と呼んでいたが、「マカロニ・ウェスタン」という名称は、「荒野の用心棒」が日本に輸入された際に、映画評論家の淀川長治が「スパゲッティでは細くて貧弱そうだ」ということで「マカロニ」と改名したという。ちなみに、中身がないという暗喩も含んでいるという説もある。日本人による造語であるため、「マカロニ・ウェスタン」という言葉は他国では通用しないようだ。

1930年代からイタリアでは西部劇が作られていたが、イタリア映画産業の斜陽から経営危機に陥り、活路を見いだすためにハリウッドの駆け出し俳優などを使って低予算で製作された西部劇は、残忍で暴力的なシーンを多用した斬新な作風が当時の西部劇の価値観を大きく変えた。

本場アメリカ製西部劇には、ドラマ性、叙情性などが見られたのに対し、「マカロニ・ウェスタン」は、正義感のない主人公、残虐性、乾いた作風、激しいガン・ファイトなどを売り物にした。また、本場西部劇の劇中音楽がフル・オーケストラ演奏だったのに対し、「マカロニ・ウェスタン」はエンニオ・モリコーネによるエレキギターサウンドのスコアが特徴であった。

役者として招いたハリウッドのB級俳優の中には、まだ売り出し中のクリント・イーストウッドバート・レイノルズの姿もあり、また、ハリウッドでは悪役専門だったリー・ヴァン・クリーフが主人公に据えられたりした。イタリア人の俳優では、フランコ・ネロジュリアーノ・ジェンマが有名になった。

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そして、「マカロニ・ウェスタン」は日本でも人気を集め、ブームの頃には日本国内においてもその作風の影響を強く受けた時代劇が多数製作された。映画では五社英雄監督の「御用金」や三隅研次監督「子連れ狼」、テレビドラマでは「必殺シリーズ」「木枯し紋次郎」など「マカロニ・ウェスタン」の要素を取り入れた作品が若者を中心に支持を集めた。

イタリア文学・映画には「ジャッロ(Giallo)」というジャンルがある。これはホラーや犯罪ものなどを含み、エロティシズムも加味されているジャンルである。「ジャッロ」とはイタリア語で「黄色」を意味し、ペーパーバック小説の表紙が黄色であったことに由来する。

1960年代から1970年代にかけて、多くのイタリア人監督が「サスペリア」などに代表される「ジャッロ」に含まれるホラーというジャンルを発達させていき、これらの作品は海外にも影響を与えるようになっていった。

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また、モンド映画の語源となっているイタリア語原題「MONDO CANE」のグァルティエロ・ヤコペッティのドキュメンタリー映画「世界残酷物語」が1962年に公開され世界的に大ヒットした。「世界残酷物語」のヒット以降、便乗するようにイタリアを中心としたヨーロッパ各地や日本で1960年代から70年代にかけて秘境ドキュメンタリー映画や残酷ドキュメンタリー映画、性医学ドキュメンタリー映画などが製作され、壮絶な題名や誇大な広告とともに公開された。そして、1970年代後半から1980年代初期にかけて、イタリア映画は暴力的なホラー映画で代表されるようになっていった。

そのような状況はイタリア映画界の長い停滞期を意味した。この時期、「アート・フィルム」と呼ばれる作品は高い評価を得ていたが、イタリア映画界の中では主流から孤立した存在となっていった。その中には、フェデリコ・フェリーニ監督作品やミケランジェロ・アントニオーニの「ある女の存在証明」や100%イタリア映画ではないが、ベルナルド・ベルトルッチの「ラスト・エンペラー」は、ノミネートされた9部門すべてのオスカーを受賞した。

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1980年代終わり以降、新しい世代の映画監督たちがイタリア映画の復興に一役買った。1989年公開のジュゼッペ・トルナトーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」が第62回アカデミー賞でアカデミー外国語映画賞を受賞。1999年にはロベルト・ベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」が第71回アカデミー賞でアカデミー外国語映画賞、作曲賞、主演男優賞、また、第51回カンヌ国際映画祭でも審査員特別グランプリを受賞し、イタリア映画の復活は確実なものとなった。2001年にはナンニ・モレッティの「息子の部屋」が第54回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞している。今後のイタリア映画がどのような作品を生み出していくか注目したい。

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イタリア映画ではないが、先日、史上初となる3度目のアカデミー賞主演男優賞を受賞したダニエル・デイ=ルイスがスランプに陥った映画監督のグイド・コンティニに扮した「NINE」は、フェデリコ・フェリーニによる自伝的映画「8 1/2(Otto e mezzo)」をミュージカル化し、トニー賞を受賞した同名ブロードウェイ・ミュージカルを映画化した作品。主人公を取り巻く女性たちをマリオン・コティヤールペネロペ・クルスニコール・キッドマンケイト・ハドソンジュディ・デンチソフィア・ローレンなど、ほとんどアカデミー賞受賞経験のある豪華な女優陣が出演し、話題になった。また、グラミー賞受賞歌手のファーギーことステイシー・ファーガソンも女優として本格的に出演している。

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ほとんどのフェリーニ監督作品が撮影されたローマ郊外の「チネチッタ」撮影所でこの作品の撮影が進められたことは、「NINE」の監督であるロブ・マーシャル監督のフェデリコ・フェリーニへのリスペクトの深さの証であり、「あなたが出ないのなら、この作品は撮らない」と、ソフィア・ローレンを口説いたという事も、フェリーニ監督への敬意の表れなのかも知れない。また、イタリア映画が世界の頂点に君臨していた時代へのオマージュと言える作品である。

この作品の中で、ヴォーグ誌記者ステファニー役を演じるケイト・ハドソンが披露する「シネマ・イタリアーノ」の心揺さぶるダンシングシーンは印象的で今でも心に残っている。個人的に「NINE」は、古き佳き時代のイタリア映画全盛期の雰囲気をハリウッドアレンジで見事に再現させた作品だと勝手に思い込んでいる。

明日は、1人のイタリア人監督についてお届けする予定。

※動画はこちらでご覧いただけます。

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