Touch the Heartstrings

心の琴線に触れる森羅万象を日々書き綴る「Touch the Heartstrings」

ベントレーのスキー板

冬のスポーツにはまったく縁のなかった人生だけに、恥ずかしながら今まで1度もスキーをしたことがない。もちろん、スキー板にも興味はない。しかし、ベントレーの名を冠したスキー板があるという情報には食指が動いた。プロが用いるような特別なテクニックなど不要で、あくまで気軽にハイパフォーマンスが堪能できる、まさにベントレーのようなスキー板だという。

ベントレーが選んだスキーメーカーは「ザイ(zai)」。この「ザイ」という名を初めて耳にしたとしても不思議ではない。設立は2003年と新しく、現在も生産量は年間に1000セットほどだ。しかも、スキーの花形選手が履いてFISワールドカップを賑わせているわけでもない。よほどのスキーマニアでなければ、その名を知らなくても当然と言える。

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そんな「ザイ」をベントレーと結びつけたのが、同社の前CEOであるフランツ-ヨセフ・ペフゲン氏。4年ほど前、ペフゲン氏がスイスのディゼンティスというスキーリゾートを訪れ、偶然「ザイ」のスキー板を購入したことによる。そして、そのあまりの素晴らしさに魅せられた彼は、わざわざ「ザイ」の工房を訪れ、生産過程などをつぶさに見て回ったという。

驚いたのは「ザイ」。8名のスタッフでスタートした2003年の創業当時から約10年を経た現在でも12名ほどの小さな工房で、少量のスキー板を丁寧にハンドクラフトするスキーメーカーにすぎない。そこにベントレーのような大企業のCEOが訪れたのだから無理もない。

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ペフゲン氏が「ザイ」の工房を見学してからしばらく経って、「ザイ」の創業者で、唯一のエンジニアであるシモン・ジャコメット氏は、ペフゲン氏からベントレーの本拠地であるイギリスのクルーに招かれた。この訪問中、ペフゲン氏から「あなたたちとパートナーシップを結びたい」との申し出があった。そして、「ただし、ベントレーの文字が描かれたスキー板を私たちのコレクションに加えればそれでいいという話ではない」と彼は続けた。つまり、ペフゲン氏は単なるブランディングだけではなく、もっと深い部分での結びつきを「ザイ」との間に求めたのだ。

「ザイ」はゼロから開発をスタートし、まったくに新しい製品を作り上げた。そして、両社の関係が自動車メーカーと異業種の間によくあるコラボレーションとまったくの別物である、ベントレーの名を冠したスキー板、その名も「zai for BENTLEY」が完成した。

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ウォールナット、ヒマラヤ杉、ステンレススチール、生ゴム、カーボンファイバー、超高強力ポリエチレン繊維、そしてなぜか、石…。これらは「ザイ」のスキー板に使われる素材である。通常のスチールに比べてコストが7倍と高いステンレススチールは、従来のスキー板にはあまり使用されていなかった素材。また、生ゴムをスキーに使うというのも意外だが、これは見た目の美しさに加え、優れたダンピング性能を有しているため採用されている。なお、「ザイ」が用いる生ゴムは高級ウオッチメーカーの「ウブロ(HUBLOT)」が使っているものとまったく同じもの。

カーボンファイバーをハイエンドのスキー板に使用すること自体、今ではさほど驚くに値しないが、「ザイ」の場合はスキー板に対して斜めにカーボンを巻き付けるのが特徴。こうすることよって理想的な「ねじれ剛性」が得られるという。また、超高強力ポリエチレン繊維とは、日本の東洋紡が作る「ダイニーマ」のことで、張力に対する強度は鉄の12倍もあり、よく知られているケブラーよりも優れている。

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そして、「ザイ」が使用する石は、地元で産出される片麻岩。これを厚さ1cmほどに切り、周囲にカーボンファイバーを巻き付けると、たわませても折れない柔軟性を備えるようになる。「ザイ」では一部高級モデルの芯材としてこの「石」を使用しており、その長さはスキー板の長さにほぼ匹敵するのだが、不思議なことにまったく重いとは感じられない。ただし、ダンピング性能が高いため、特にハイスピード域での安定性を向上させるのに有効だという。

ちなみに、一番廉価なモデルでさえ40万円ほどする「ザイ」のラインナップにあって、「zai for BENTLEY」はもっとも高価で、廉価版の倍の値段で80万円。これが高すぎるのか、リーズナブルなのかは分からないが、ベントレーを所有する層からすれば、このくらいの値段はガソリン代くらいの感覚なのだろうか…。

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「zai for BENTLEY」の特長は、超一流のドライバーが操って初めて最高のパフォーマンスを発揮するF1カーのようなものではなく、ヘタなスキーヤーでも転ぶことなく、簡単かつ安全にスキーを楽しめるということにある。そして、卓越した振動吸収性能を有し、ハイスピードスキーでもまったく不安を抱かずに滑ることが可能なのだ。

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これはベントレーのフィロソフィーと完全にマッチする。クルマの持つ性能はレーシングカー並みだが、そこに洗練された4WDシステムや最新のエレクトロニクス・デバイスと組み合わせることにより、特別なテクニックを駆使しなくとも優れたパフォーマンスを堪能でき、安心してハイスピードドライビングを楽しめるのがベントレーの特色。

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高級なスキー板だから高性能なことは当たり前だが、「ザイ」が目指したものは特別な技量がなくても、その高性能を存分に楽しめるスキー板にある。つまり、ベントレーと「ザイ」は、ハイクォリティやクラフトマンシップという側面だけでなく、「安全に高速走行を堪能できるハードウェアを提供する」という企業哲学においても共通している。

これは、イギリスとスイスというまったく別の地域で生まれ、互いに相手の存在をほとんど意識しないままこれまで歩んできたにもかかわらず、物づくりの奥底では極めて近い考え方を有していたことになる。この2つの企業の出会いは、決して偶然ではなく必然だったのだ。

余談ながら、スイスの公用語は4つあり、ドイツ語とフランス語、イタリア語の他にロマンシュ語というのがある。古いラテン語に近いとされるロマンシュ語は、スイス南東部のごく一部で用いられているに過ぎず、日常的に用いているのはわずか3万5,000人ほど。いわば、絶滅の危機に瀕した言語と言える。

「ザイ」という社名はロマンシュ語で「タフ」を意味する。創業者のジャコメット氏は古くからロマンシュ語を話す家系に生まれ育った。そして、スタッフ全員がロマンシュ語を話す。つまり、「ザイ」という社名には、ジャコメッ氏トたちの深い誇りが込められているのだ。

サン・モリッツ辺りまでベントレーでドライブし、「ザイ」のスキー板でゲレンデに鮮やかなシュプールを描くセレブの姿が夢に出てきそうだ。

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